仇討禁止令

菊池寛
小説家、劇作家。本名、菊池寛(ひろし)。明治21年12月26日~昭和23年3月6日。香川県高松市に生まれる。大正3年、京大英文科在学中に芥川龍之介らに勧誘され、第三次「新思潮」の同人となる。大正6年頃から本格的に執筆活動を開始し、大正7年に発表した「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」によって文壇的地位を確立。芸術至上主義に対して、実生活の尊重と文学の社会化を主張し、「真珠夫人」(大正9)など、中上流階級の家庭を舞台とした通俗小説も多く執筆した。また、大正12年に雑誌「文芸春秋」創刊、大正15年に文芸家協会設立、昭和10年に芥川賞、直木賞設立など、編集出版や社会的活動においても目覚ましい成果を示し、文学の普及と発展に大きな功績を残した。昭和23年3月6日、狭心症により死去。享年59歳。代表作は「父帰る」、「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」、「恩讐の彼方に」、「真珠夫人」など。
仇討禁止令
一
鳥羽伏見の戦で、讃岐(さぬき)高松藩は、もろくも朝敵の汚名を取ってしまった。
祖先が、水戸黄門光圀の兄の頼重(よりしげ)で、光圀が後年伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の伝を読み、兄を越えて家を継いだことを後悔し、頼重の子綱条(つなえだ)を養って子とし、自分の子鶴松を高松に送って、嗣子たらしめた。
だから、高松藩は、徳川宗家にとっては御三家に次ぐ親しい間柄である。従って、維新の時、一藩挙(こぞ)って宗家大事という佐幕派であった。
鳥羽伏見で敗れると、小河、小夫(おぶ)の両家老は、敗兵を率いて、大坂から高松へ逃げ帰った。
一藩は、朝敵という名に脅えている時だった。四国で、勤王の魁首(かいしゅ)である土佐藩は、早くも朝敵追討の軍を起して、伊予に入り、同じく勤王の宇和島の藩兵を加え、松山の久松松平家を帰順させ、予讃の国境を越えて、讃岐へ入って来た。
